2011年3月11日、私は福島県郡山市にいました。
地震動揺をしてる私を隠すことに必死でした。
アパートに戻ると断水。
テレビでは真っ黒な津波と福島第一原子力発電所の危機的な状況。
snsで皆の状況を確かめ、
断水は自分の家だけだと思っていたのでトイレを借りに走り回り、
数時間かけて給水所で水を確保し、
電話がつながって親しい人の声にホッとし、
日々深刻化する原発問題のテレビを前に動けなくなっていました。
会社のビルの点検のため一週間の休み。
5日目に知人に送ってもらって宮城の実家へ帰りました。
実家には家が津波の被害をうけた親戚が集まっており、
悲しい顔が一瞬で私のもとにきて悲しい気持ちになりました。
それでも毎日を過ごさなければいけないので
水をくみ、ご飯をつくり、食べ、津波被害にあった亘理の親戚の家に行く。
実家に戻った二泊三日、非現実な毎日の中、
必死に幸せな風景を探している私がいました。
夕飯、12人が食卓を囲んでいるときおばあちゃんが言いました。
「昔はこんな風に沢山の家族でご飯を食べてた」
いつもあちらこちら痛いといってたりご飯を食べなかったりする
おばあちゃんの元気な姿に幸せをもらいました。
家族が無事だったこと。
3月の春めいた晴れの日に洗濯を干すこと。
その下、少しの水で食器を洗うこと。
断水と停電が続いていた実家でそんなことをしてたら
気づかなかった幸せがあちこちで舞ってました。
2013年4月、福島県郡山市から石川県七尾市へ引っ越しました。
どんな情報も信じられず、放射線量が高い中での生活に苦しさを覚えたこと
震災を機に自分が望む暮らしに変化があったこと。
2014年3月11日
東北から離れてもうすぐ1年。
3月に入った頃から無力さを覚えて悲しさに取り付かれる日が数日ありました。
ぽーんて逃げてきて、私はこれで良かったのか。
2011年3月14日に書いた日記には
「東北を動かすために動き始める」と書いてありました。
震災の悲しさに悶々としていたらある日能登島のお父さんがこんなことを
いってくれました。
「ある日方向性が見えてくる。そうなったときにやるべきことが沢山でてくる。
だけど、一気に片付けようとしないで自制して一つ一つこなしてゆくんだ」
私は今そんな時期なのかなと思います。
自分のことしか考えてない私がいる心苦しさと東北が好きなこと。
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